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「ムラの欲望」とは何か -開沼博『「フクシマ」論』における「ムラ」と戦後日本の位置- 清原悠 via 書評ソシオロゴス

1 はじめに――主題は何か 本稿は開沼博『「フクシマ」論』の書評論文である。本書は3.11 以前になされた「最後の学術論文」(開沼 2011: 15)として、一般にも広く読まれ、第65回毎日出版文化賞(人文・ 社会部門)を受賞するなど、学術的にも避けて通ることのできない研究書であると言えよう。そこで本稿は、この『「フクシマ」論』が既存の研究に対しどのようなオリジナリティを有しており、またいかなる問題を提起したのかを検証し、著者の問題提起を批判的に継承するために要請される社会学的な方法論を検討する(以下、本書からの引用は頁数のみを記載する)。 著者の問題関心は「翻弄される地方・地域」(25)を主題として論じ「日本の戦後成長における地方の服従の様相を明らかにすること」(37) を分析課題として設定している。副題に「原子力ムラはなぜ生まれたのか」と書かれていることから、しばしば誤解をもって読まれてしまっているが、本書は「原子力」の問題のみを扱った研究書ではない。著者によれば「私が最も迫りたかったのは『中央と地方』という問題だった 」(14) のであり、「 原発」の問題は著者の問題関心からするならば、その一部である。例えば、ダム開発(25-8)や三里塚闘争 (28-9)、そして沖縄(63)を取り挙げながら、自らの立論が原子力(発電所)にのみ当てはまるものではないことを著者は説明しており、沖縄への言及においては「この引用の『沖縄』は『原子力』に代替可能だ」(65)と述べている。実際、分厚い本書の構成において、原子力 / 原子力ムラが直接 扱われている部分は必ずしも多くはない。 […] このような著者の立論に対し、以下、本稿では次のような構成をとって本書の書評を行う。2 章では本書がいかなる問題提起を行っているのかを詳述し、先行研究の文脈の中で著者のオリジナリティを検証する。3章では、本書における「ムラ」概念の理論射程の有効性を検証するため、本書では十分に取り上げていない、福島県内にありながら原発が設置されなかった浪江町を事例にとり分析を行う。なお、著者が述べる「ムラ」には 地元における「原子力ムラ」と原子力推進体制としての中央の<原子力ムラ>があるが、後者は前者からの類比により成立しているため、本稿では前者を念頭において論述していく。4章では『「フ クシマ」論』の中心的な事例である福島第一原発の立地過程の再検証を行い、いかなる事実を取りこぼしたのかを指摘し、著者の背後仮説を明らかにする。5 章では、この著者の議論枠組みを批判的に継承するために、いかなる方法論的課題があるかを検討する。その課題を事例に基づいて検証するため、日本で最も早期に原子力発電所が設置された東海村を本書に対する比較対象事例として取り挙げ、今後の研究の進展のために必要な論点を指摘する。 全文ダウンロードは 「ムラの欲望」とは何か -開沼博『「フクシマ」論』における「ムラ」と戦後日本の位置- 清原悠(PDF)    

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