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IAEAと米国はなぜ日本の汚染水放出決定を支持したのか via Hankyoreh

日本政府が13日、福島第一原発の汚染水の海への放出を決定したことに対し、米国と国際原子力機関(IAEA)が相次いで支持声明を発表したことについて、その背景に関心が集まっている。韓国や中国、ロシアなどの隣国が強く反発する中、米国とIAEAはなぜはばかりもなく日本を支持するのだろうか。  IAEAは、日本の発表があった当日、ラファエル・マリアーノ・グロッシー事務局長名義の声明を発表し、「日本の決定を歓迎する」と述べた。IAEAの支持はある程度予想できた。グロッシー事務局長は昨年2月に福島第一原発を訪問したのに続き、先月23日にはオンラインで、汚染水について「日本政府の努力を評価する」と述べ、事実上、後援者の役割を演じた。  1957年に設立されたIAEAは、原発政策において「安全」を強調してはいるものの、基本的には原発の拡大に重点を置く組織だ。原発の危険性を満天下に知らしめた福島第一原発事故の円満な決着は日本政府とIAEAの共通の目標だ、と複数の環境団体は語る。福島第一原発の廃炉と汚染水処理は最重要課題であるだけに、両者は緊密な協力の下に動いているというのだ。  また、原発大国の一つである日本のIAEAでの影響力は強い。韓国外交部の資料によると、IAEAの正規予算の分担率で日本は8.2%を占め、米国(25%)、中国(11.6%)に次いで3番目に多い。汚染水の海への放出を支持した米国と日本を合わせれば33.2%となり、圧倒的な分担率を占める。韓国は2.2%で11位だ。また、前事務局長は日本の天野之弥氏だ。天野前事務局長は、2009年から死去する2019年までの10年にわたって事務局長を務めた。 (略) 日本政府が浄化施設によって除去できないトリチウム(三重水素)に焦点を当てていることも、米国とIAEAを日本側に立たせた要因だという分析もある。トリチウムは日本だけでなく、米国、中国、韓国など原発施設のある他の国々でも、各国が定めた基準値以下にして海に放出している。IAEAと米国が日本の決定について「国際基準に適合する」と言った理由はここにある。  しかし、福島第一原発のタンクに保管されている汚染水は、事故で溶けた核燃料の冷却水に雨水や地下水が混ざっており、トリチウムだけでなく人体に致命的な放射性物質が含まれている。一度は浄化したものの、汚染水の約70%にはセシウム、ストロンチウム、ヨウ素などの放射性物質が依然として含まれている。日本政府は、再び浄化して放射性物質を基準値以下に下げると強調しているが、2次浄化の結果はまだ正確には公表されておらず、懸念の声があがっている。キム・ソヨン記者 (お問い合わせjapan@hani.co.kr)  http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/990998.html  全文はIAEAと米国はなぜ日本の汚染水放出決定を支持したのか

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仲間の自死、見せかけの復興「このまま戻れない」…原発事故「自主」避難者たちの不条理な現在地 via 東京新聞

東京電力福島第一原発事故の後、福島県内の旧避難指示区域外から逃れた人たちは「自主避難者」と呼ばれ、さまざまな支援の外に置かれた。同県郡山市から川崎市に母子避難した松本徳子さん(59)もその1人だ。自主避難者への住宅無償提供が打ち切られた後、自死を選んだ同郷の母親もいた。 「避難をした人、しない人。それぞれの選択が尊重される社会を願ってきたが、かなわなかった。不条理です」と自主避難者の現状を見つめる。(安藤恭子) ◆いないことにされる私たち  「五輪に向け、福島は今『復興』の一色。その一方、私たち区域外避難者はいないことにされ、この国は原発をやめようとしない」。3月10日夕、横浜・象の鼻パークで開かれた東日本大震災の追悼イベント。松本さんが聴衆に語りかけた。「この10年で何かが変わった、とされることには憤慨しています」  松本さんが生まれ育った郡山は、福島第一原発から約60キロ離れている。当初は避難するつもりはなかったが、震災の3カ月後、当時12歳の次女が大量の鼻血を出し、吐き気や下痢をもよおすようになった。「少しでも被ばくしない所へ」。自営の夫を残し、2011年秋に川崎市に移転した。  17年3月、自主避難者への住宅の無償提供政策が打ち切られたが、郡山には帰れなかった。「自宅の庭にはまだ汚染物が残っていたから。娘も体調を崩した怖さを覚えている」と松本さん。除染は進んでも、放射線量が高い場所や食べ物は存在する。次女は川崎で高校を卒業し、就職した。 (略) ◆声を上げられなかった人たちの分まで  16年にできた「避難の協同センター」(東京)の代表世話人に就き、自主避難者らの相談に応じてきた。17年5月、相談者の1人で郡山から母子避難していた女性が自死をした。「睡眠剤をのんだから、またね」。電話で話したのが最後だった。  女性は仕事を掛け持ちし、自分の物を切り詰めて子どもたちの学費を貯金していた。家族に母子避難を反対され、自分を責めてもいた。「頑張っていた彼女を、貧困が追い詰めた。住宅無償提供の打ち切りを決めた国や行政の選択は間違いだ」。五輪を前に自主避難者をなかったことにする「見せ掛けの復興」がうたわれている。松本さんの目には「棄民政策」と映る。 (略) 2月の地震でも原発事故の恐怖はよみがえり「このままでは帰れない」と心に決めている。戻れば、福島が大丈夫と認めることになるからだ。「子どもたちに、原発が安全なエネルギーと思ってほしくない。同じ過ちを繰り返さないため、声を上げられなかった人たちの分まで、おかしいと言い続けなければと思っているんです」 全文は仲間の自死、見せかけの復興「このまま戻れない」…原発事故「自主」避難者たちの不条理な現在地

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福島からの証言・6 via Yahoo! Japan ニュース

土井敏邦 | ジャーナリスト 概要〉  橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡市へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡市で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。 【避難先でのすれ違いと離婚】 (略) なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。  家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました 電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。  夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。  テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。 (Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)  原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。 「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。  母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。  「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、這い這いさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。 (略) 一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。  郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。  「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に博多まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。  震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならんな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。  帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。  (子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。 (略) 「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。  これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。 全文は福島からの証言・6

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仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書 via AFPBB

【3月11日 AFP】フランスが1966年から1996年にかけて太平洋で行った核実験では仏領ポリネシア(French Polynesia)の「ほぼ全人口」が被ばくしたものの、同国は同地域がさらされた放射線量を隠蔽(いんぺい)していたとする報告書を、調査報道機関ディスクローズ(Disclose)が9日、公表した。  ディスクローズは、仏国防省が2013年に機密解除した軍の核実験関連文書約2000ページを2年かけて分析。調査はディスクローズと英モデリング・調査会社インタープリト(Interprt)、米プリンストン大学(Princeton University)の科学・国際安全保障プログラムが共同で実施した。 報告書は1974年7月に行われた核実験「サントール(Centaur)」について、「被ばく量の科学的再評価に基づき私たちが計算したところ、当時のポリネシアのほぼ全人口に相当する約11万人が汚染されていた」と結論。  また調査結果を裏付けるため、核実験で生じた有毒な雲をモデル化した結果、「仏当局が50年以上にわたり、核実験がポリネシアの人々の健康に与えた真の影響を隠してきた」ことが判明したと説明。住民の甲状腺被ばく線量について「私たちの推定値は、2006年に仏原子力庁が出した値の2倍〜10倍高い」とした。 続きは仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書

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「日本政府の状態はリビアより酷い」10年前…トモダチ作戦の裏で起きていた“熾烈な攻防” via 文春オンライン

麻生 幾 多くの日本人の心には、アメリカ軍が東日本大震災で大規模な支援をしてくれたことが刻まれている。その支援が「トモダチ作戦」の名の下で行われたこともまた広く知られていることだ。  アメリカ軍が必死で日本を支援してくれたこと、離島にも生活物資を運んでくれたことへの感謝の言葉は多い。冠水した仙台空港の早期の復旧には、多くの日本人から敬服する声が送られた。  アメリカ軍によるピーク時の支援は人員16,000名、艦艇15隻、航空機(固定翼、回転翼)は140機にものぼった――。 トモダチ作戦の裏での“攻防”  昨年12月。間もなく震災から10年を迎えようとしていた頃、日米の関係者たちが重い口を開き始めた。彼らが一様に口にしたのは、そのトモダチ作戦の裏で、原発対処を巡る“日米の激しい攻防”が繰り広げられていたという新事実だった。  これまでこのことは明らかにされることはなかった。しかし、10年目という大きな節目だからこそ、その時の教訓が引き継がれることを願う想いが、関係者たちの証言となった。  それら関係者からの聞き取りを重ねてゆく中で、10年前に書かれた1枚の文書と出合うこととなった。  題名は〈統幕BCAT(ビ─キャット)横田調整所の役割分担〉。  自衛隊とアメリカ軍とが連携して行う震災対処を調整するための、自衛隊側の対応チームの編成表だ(※統幕とは陸海空自衛隊を運用する東京・市ヶ谷の統合幕僚監部を指す)。 (略) しかしこの「BCAT横田調整所」が、原発対処を巡り、日米の軍事関係者が密かに激論を交わし、“熾烈な攻防”が繰り広げられた“最前線”であったことは、ほとんど知られていない。 「日本政府は情報を隠している」 (略) そこには政府の公文書にも関わらず感情的な言葉が並べられ、最後をこう結んでいた。 〈日本政府は、原発事故に関する情報を隠している。この状態は現在のリビアより酷い〉  当時、北アフリカのリビアは40年間にわたって独裁政治を続けていたカダフィ政権と反政府組織との間で激しい内戦が続き、政府機関は機能せず、全土が混乱していた。駐在武官は、それよりも日本政府の状況が“酷い”と怒りを込めた公電で言い切ったのである。  そしてその日を境にアメリカ軍は「BCAT横田調整所」を舞台にして、驚くべき要求を日本側に突き付け始めたのだった。  米軍が日本に突き付けた要求の中身は、「文藝春秋」4月号および「文藝春秋digital」掲載の麻生幾氏のレポート『その時米軍は「日本再占領」に動いた』をお読み下さい。 全文は「日本政府の状態はリビアより酷い」10年前…トモダチ作戦の裏で起きていた“熾烈な攻防”

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教科書に載ってない「ビキニ」 29歳監督が撮った男たちの苦悩 via 毎日新聞

松原由佳 ナレーションも、字幕も、BGMもない。隣に住んでいるようなおじいちゃん、おばあちゃんが淡々と言葉をつないでいく――。1954年に米国が太平洋・ビキニ環礁付近で水爆実験を繰り返し、島民や漁船の乗組員が被ばくした「ビキニ事件」の異色のドキュメンタリー映画が完成した。監督し、自らカメラを回したのは、埼玉から高知に移り住んだ29歳の青年だ。事件から3月で67年。70分間の映像には、歴史の教科書に載っていない、高知の元船員や遺族の知られざる苦悩が記録されている。  タイトルのバックに流れる波の音が、見る者を大海原へといざなう。「放射線含んどるから魚を廃棄せないかん。それ聞いただけで、ほんまに泣きましたね」「知らんもんやけん、降ったものが付いた体を洗うてね。それが後に死の灰じゃゆうてね」。黄ばんだ船員手帳をめくりながら、あるいは真っすぐ前を見つめながら、海とともに生きてきた男たちがあの日に思いを巡らせる。 ビキニ事件では、被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の無線長、久保山愛吉さん(当時40歳)が半年後に死亡し、全国に衝撃を与えた。しかし、延べ約1000隻の日本漁船が被害に遭い、放射能で汚染した約500トンの魚を廃棄させられたことはあまり知られていない。そのうち延べ約270隻は高知県籍の船だった。帰港後に船などの放射能検査を受けたが、船員の多くは補償も受けられずに放置された。 埼玉から高知へ移住  映画を撮った甫木元(ほきもと)空さん(29)は埼玉県越生町出身。多摩美術大の映像演劇学科に在籍していた頃から、身の回りの問題をテーマにしたドキュメンタリー映画などを作ってきた。数年前、祖父の家があり、幼い頃から身近な存在だった高知県で映画を撮ろうと四万十町に移住した。 それまでビキニ事件について知っていたのは「第五福竜丸が被ばくしたことくらい」。しかし、元高校教諭で市民団体「太平洋核被災支援センター」事務局長の山下正寿さん(76)=高知県宿毛市=に出会って刺激を受けた。山下さんは85年から高校生と一緒に県内の元船員や遺族への聞き取りを重ね、国家賠償を求める訴訟などの支援をしてきた。事件当時のことを語れる人はもう少ない。「自分も歴史に向き合い、証言を残さなければ」と映画製作を決意した。  2020年夏から秋にかけ、動画が撮れる一眼レフカメラを手に元船員や遺族を訪ね歩いた。元船員の多くは80代や90代。一度の訪問が長時間にならないように気遣った。インタビューで心がけたのは、家族との思い出や船を下りてからの生活など、自分史を語ってもらうこと。それでも、誰もが「まるで記憶に付箋がつけられているように」事件のことを話し始めた。放射能検査で機器の針が振り切れたこと、被ばくを他言しないよう家族に言われたこと、原因が分からないのに歯が抜け、がんが次々と見つかったこと……。10人以上の証言を記録した映像は40時間に上った。 ナレーション、BGM入れず (略) ビキニ事件に興味がない人に先入観を持たずに見てもらうため、タイトルは「その次の季節 高知県被曝(ひばく)者の肖像、遠洋漁業の記憶2020」にした。「その次の季節」は、自分も含めた次の世代がどう体験を受け継いでいくかが重要だ、との思いを込め、高知出身の詩人、大崎二郎の作品から取った。  映画は20年12月に県内でお披露目された。作品の中で亡き父のことを語った下本節子さん(70)は「空さんには平常心でゆっくり話せた。映画に出てくる他の元船員の言葉からも家族への思いが伝わってきた」と言う。来場者へのアンケートでは「被ばくした人数を聞くのと、一人一人から証言を聞くのとでは重みが違うと実感した」との声も寄せられた。3月に県内で開かれるビキニ事件に関するイベントでも上映される予定で、甫木元さんは今後、全国各地での上映を目指す。問い合わせは甫木元さんのメール(emptyspace.emptymovie@gmail.com)。【松原由佳】 全文は教科書に載ってない「ビキニ」 29歳監督が撮った男たちの苦悩

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「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉 via 文春オンライン

「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #2 小池 新 「食べれば原子病にかかる」“原子マグロ”登場  3月16日付夕刊では朝日が「マグロ漁船ビキニで原爆浴びる」を社会面トップで、毎日は「ビキニの水爆?実験で邦人漁夫三十三名被災」を1面左肩で追いかけた。毎日が社会面トップに載せた「売られた“原子マグロ” 食べれば被病 都内では一応押える」の記事はその後の騒動のきっかけとなったといえるだろう。(全2回の2回目。#1を読む) (略)  3月17日朝刊の朝日には社会面3段で「築地で五百貫埋める 各地に流れる福竜丸の魚」の見出しの記事が。 (略)  同じ話題を取り上げた記事に毎日は「原子マグロを土埋め」、読売は「原子マグロ土葬」の見出しを付けた。既に「原爆マグロ」「原子マグロ」が紙面をまかり通っていた。 (略) 同じ日の紙面には、焼津で乗組員の診察や第五福竜丸の船体検査などを続けていた東大などの総合調査団が 1)乗組員らは生命に危険はなく2カ月ぐらいで回復する2)船体を焼いたり沈めたりする必要はない3)魚はサメは危ないがマグロは食べてもよい  との結論を出したことも載っている。 ついにあきらかにされた水爆の事実 「想像を絶した爆発力 測定不能」  3月18日付夕刊各紙には、アメリカ議会原子力委員らを情報源としたビキニ実験の規模などについての記事が掲載された。朝日は「想像を絶した爆発力 測定不能 米科学も驚倒」、読売は、「測定装置役立たず 強力無比の水爆」の見出しだったが、「史上最大・ビキニ『水爆』 広島原爆の六百倍」が見出しの毎日を見よう。 (略) 各機関の調査団が現地へ 交錯する評価  現地焼津には東大のほか、京大など各機関の調査団が入ったほか、広島のABCC(原爆傷害調査委員会=現放射線影響研究所=)のモートン所長らも加わることになり、3月19日付読売朝刊は「日米死の灰調査合戦」の見出しで報じた。 (略) さらに、同じ紙面では、サンフランシスコ特電(INS)で、ビキニの実験場と東京を視察して帰国したアメリカの上下両院合同原子力委員会委員のパストール(パストアと表記した新聞もある)上院議員の談話が「漁夫の火傷は浅い」の見出しで載っている。  同議員は日本滞在中、アメリカ側官憲から第五福竜丸の23人についての「あらゆる資料の提供を受けた」としたうえで「残念なことだが、最初の報告は事件を誇張したものであり、漁夫たちの火傷を実際よりもはるかに重いように伝えたことが分かった」と語っている。 (略) 乗組員はスパイ!? アメリカの思惑  アメリカは3月19日に実験の危険区域を数倍に拡大する一方、実験の被害をなるべく小さく見せようとした。パストール議員から報告を受けたコール委員長はさらに踏み込んだ。  3月24日付産経夕刊には「被爆漁民スパイとも思える コール委員長が重大発言」の見出しでワシントン発AP=共同電が載っている。第五福竜丸の補償について、権限はあくまで議会にあるとしたうえで、最後にこう語っている。 「日本人漁船及び漁夫が受けた損害についての報道は誇張されているし、これら日本人が漁業以外の目的(スパイの行為を意味する)で実験区域に来たことも考えられないことではない」  不幸にも久保山無線長の危惧が的中したことになる。第五福竜丸平和協会編「ビキニ水爆被災資料集」によれば、これに先立つ3月18日、原子力委員の下院議員2人が「部外者が放射能によって被害を受けるほど接近できた理由を議会が調査すべきだ」「そうでなければソ連が潜水艦でスパイ行為をするのを防げないことになる」と述べていた。 … Continue reading

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「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日 via 文春オンライン

「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #1 小池 新 (略) 「航海は最初からおかしかった」  1954(昭和29)年1月22日午前11時、「第五福竜丸」は母港の静岡県・焼津港を出港した。140トンの木造漁船。1947年に神奈川県・三崎港所属の漁船として和歌山県で建造され、別の船名で操業していたが1953年、譲渡されて第五福竜丸に。“改名”後、5回目の航海だった。  出航直前、ベテランの甲板長ら5人が船を去り、乗組員が入れ替わった。船に乗り込んだのは23人。久保山愛吉・無線長(39)を最年長に30代が3人。ほかは、10代3人を除いて、船長も、操業の全責任を持つ漁労長(船頭と呼ばれていた)も20代で、平均年齢25歳の若いメンバーだった。 「考えてみると、この航海は最初からおかしかった。首をかしげたくなるようなことばかり起こった」。出航の翌日に20歳を迎えた「冷凍士」で現在も健在の大石又七さんは著書「死の灰を背負って」にこう書いている。 (略) 静けさの中の閃光「西から太陽が昇った」  記述は水爆実験の瞬間に入っていく。  夜明け前の静かな洋上に、稲妻のような大きな閃光がサアーッと流れるように走った。午前1時から始まった投縄作業がついいましがた終わり、一区切りついた体を船室の戸口に近いカイコ棚のベッドに横たえて、開けっ放しになっている暗い外をぼんやり眺めていた。午前3時30分、船はエンジンを止め、かすかな風に流れを任せている。さっきまでの目の回るような忙しい作業と騒音がうそのような静けさだ。閃光はその時である。光は、空も海も船も真っ黄色に包んでしまった。はじかれたように立ち上がり、外へ飛び出した。きょろきょろと見回したが、どこがどうなっているのか見当がつかない。左の空から右の空まで全部黄色に染まって、まるでこの世のものとは思えない。 その時のことを、広田重道「第五福竜丸」は「突然誰かが叫んだ。『太陽が上がったゾ!』。恐怖に震える声だった」「『西から太陽が昇った』。これがみんなの実感だった」と記している。「死の灰を背負って」によれば、デッキには見崎漁労長や船長らがいて左舷をじっと見ていた。  一段と鮮明な黄白色が大きな傘状になって、水平線の彼方で不気味な光を放っている。「あそこだ」「なんだ、あれは」。声にならない。心の中で叫んだ。今にも、どでかい太陽が昇ってきそうな感じだ。  光は微妙に色を変えた。黄白色から黄色、オレンジがかって、かすかな紫色が加わり、そして赤く変わっていった。それも、少しずつ少しずつゆっくりと。誰もが無言で息をころし、立ちすくんだまま、目はその光景に吸い付けられるように、じっと成り行きを見守っていた。1954(昭和29)年3月1日午前4時12分。南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁北東約90マイル(約170キロ)、北緯11度63分、東経166度58分。  乗組員は慌てて延縄を引き揚げ、朝食をとった。「そのときだった。『ドドドドド!』。足元から突き上げてくる轟音は、海ごと船を揺さぶった」。縄を揚げる作業に戻ると、久保山無線長(「局長」と呼ばれていた)の大きな声がした。 (略) 久保山無線長は「中央公論」1954年11月号掲載の「絶筆 死の床にて」という手記で、2月27日に「虫が知らせたのか、私は見崎漁労長、筒井船長に『終戦後も原爆実験はやっているのだから、禁止区域には接近しない方がいいだろう』と注意した」と書いている。彼は戦争中、海軍に徴用されていたという。戦争中の感覚が体に染みついていたのだろう。 (略)  漁は最後まで不漁で、乗組員は「デッキにたまった白い灰も海水で洗い流し、自分たちも裸になって、髪の毛や耳などについた灰を洗い落としてほっと一息」。船は焼津港に向かって北へ。しかし……。 「灰をかぶった時点では誰も口には出さなかったが、作業中にめまいがしたり、縄を揚げ終わるころには頭痛や吐き気、夜になると下痢をする者も何人かいた」(同書)。 降り注いだ白い灰…続いた乗組員の体の異常  久保山無線長は危険を感じていたのか、甲板員に「水で体を洗え」と何度も言った。甲板員の1人が、戻って見てもらうため、白い灰を拾ってひとつかみ袋に入れていた。乗組員の体の異常は続いた。 (略) 「みんな異様な黒い顔に目玉をきょろきょろさせ、手足にできた傷も気になっていたが、次の出港までにはなんとか治るだろう。そんなふうに軽く思っていた」。3月14日午前5時50分、ひっそりと焼津に帰港。  事情を聞いた船主の勧めもあって、全員が午前中、焼津協立病院で受診。当直医は翌日、傷がひどい山本忠司機関長ら2人を東大付属病院に回した。 (略) 「焼けたゞ(だ)れた グローブのような手」が見出しの別項記事では、記者が東大付属病院で乗組員から聞き出した当時の模様を書いている。また、被爆者研究で知られた都築正男・東大名誉教授の談話も。 「外傷などから判断すると、広島、長崎の原爆の場合と違う」「今度の場合は、直接灰をかぶって2、3日後に顔が火ぶくれになったというが、その灰は水爆か原爆かの破片が落ちてきたものだ。いわば原爆のカケラの放射能そのものにやられたわけで、かぶった直後、丁寧に洗い流せばなんでもないのだが、放置しておくと、放射能が体を突き通し、火ぶくれのようになる」。 (略)  佐野眞一「巨怪伝」も「この時代、どこの新聞社も放射能についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。それが読売に限って、焼津通信部員からの一報だけでピンときたのは、この年の元旦から『ついに太陽をとらえた』という原子力開発の解説記事を連載していたためだった」と書いている。 読売の特ダネは、アメリカの核実験が周知の事実だったように書いているが、多くの日本国民にとってはそうではなかっただろう。同紙の3月2日付夕刊は1面2段で【ワシントン特電1日発】で次のような2本の記事を載せている。 【AFP】アメリカ原子力委員会のストローズ委員長は、第7合同機動部隊がマーシャル群島にある原子力委員会の太平洋実験場で原子力装置を爆発させたと1日発表した。この爆発は一連の実験の最初のものである。 【INS】米政府当局はある種の“原子装置”の実験がマーシャル群島で行われたと1日、簡単な発表を行ったが、その直後、超強力の水爆“地獄爆弾”が爆発されたのだという推測が行われている。原子力委員会及び海空両軍当局は、厳しい口止めをされていると語ったが、完成された水爆が実験されたとみてよいようである。 “地獄爆弾”とはすさまじいが、16日の特ダネがこの記事を参照していたことは間違いない。「水爆か」という見出しにも根拠があったわけだ。 全文は「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日

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【119カ月目の福島はいま】「撤去などあり得ない」 大地震で再確認したモニタリングポストの必要性 揺れでよぎる「空間線量上がった?」の不安 via Blogos

13日夜に発生した福島県沖を震源とするマグニチュード7・3の大地震は、福島の人々に改めてモニタリングポスト(MP)の必要性を実感させた。国は3年前、避難指示が出されなかった区域に設置されているMP約2400台の撤去方針を表明したが、住民たちの猛反対を受け白紙撤回した経緯がある。誰もが「原発は大丈夫か」「空間線量は上がっていないか」と不安が頭をよぎった大きな揺れ。学校や公園など身近な場所で放射線量を確認する手段の大切さが改めて浮き彫りになった形だ。 鈴木博喜 (「民の声新聞」発行人) 【「最低限の『知る権利』」】 「原発が心配で、私も友人たちもそれぞれに眠れない夜を過ごしました」  いわき市の千葉由美さんは大地震から一夜明けた14日朝、フェイスブックに自身の無事を報告するとともに、そう綴った。  福島第一原発のライブ映像を観ながら「まだまだこんな状況なのに、〝復興五輪〟で『福島の復興を世界にアピールしなきゃ』と避難指示を解除し、原発の近くに住民を戻してしまった事にも怒りが込み上げた」という。  そして、改めて強く実感したのが、モニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム、以下MP)の必要性だった。  千葉さんは3年前、国の原子力規制委員会が避難指示が出されなかった区域に設置されたMP約2400台の撤去計画を打ち出した際、中通りや会津の友人たちと「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」を発足。原子力規制庁や福島県内市町村に撤去しないよう求めた。当時、保育士の女性は「大きな地震が起きると、私たち幼稚園の職員も、また『3・11』の時のようになるのではないかとドキドキしてしまいます。MPは、何も起きていない事を確認するためになくてはなりません。どうか撤去はしないでください」と撤去に反対していた。  原子力規制庁が福島県内15市町村で開いた住民説明会で撤去に反対する意見が噴出した事もあり、最終的に国は「当面の存続」に方針転換したが、千葉さんたちがMP設置継続を求めていた理由の一つが、今回のような大地震の際の被曝リスクの可視化だった。2018年4月、原子力規制委員会の更田豊志委員長あてに提出された要請書には、次のように書かれている。 「原発事故はいまだ継続中であることを踏まえ、空間線量の可視化により安全を確認することのできるモニタリングポストは、私たち住民の最低限の『知る権利』を保障するものです」 (略) 【「もし原発で何かがあったら…」】 当時、MP撤去に「NO」の声をあげた住民たちは、次のように口にしていた。  「今後、もし福島第一原発で何かがあった場合、MPは情報をキャッチする要となるはず。私たち市民には、原発事故が起きた時に空間線量もSPEEDI情報も知らされなかった〝苦い思い出〟がある。数値を簡単に目にする事が出来るMPはぜひ残して欲しい」  「幼い子どものいるお母さんたちは、数値を見ていないようで結構見ている。『今日は普段と変わらない』とか『今日はちょっと高くなってる』とか、そういう声を聞く。まだまだMPは必要」  「ちょっと大きな地震が起きると保育園の先生たちはMPの数値を確認しに走ると聞いている。インターネットを使っていない人も多くいる中で、見てすぐに確認出来るMPの存在は本当に私たちの生活の一部になっている。これから(福島第一原発が)どうなるか分からないので、このまま継続して設置しておいて欲しい」  「原発事故は継続中。私たちは何が起こるか分からないという心配の中でここで暮らしている。MPの撤去は親として不安」  原子力規制委員会が挙げた撤去理由の一つに「コスト」があった。年間5億とも6億とも言われる維持費が継続配置のネックになると住民説明会などで説明していた。  ちなみに、福島県の2021年度当初予算で計上された「東京2020オリンピック・パラリンピック関連復興推進事業」には、6億6455万4000円が充てられている。これで「延期後の東京2020大会において、これまでの支援に対する感謝の思いや本県の現状を発信する取組を実施する。また、大会簡素化の方針や感染症対策等を踏まえ、安全・安心な大会となるよう準備を進めるとともに、大会が本県の復興や風評払拭等につながるレガシーとなるよう関連事業を実施する」という。  数億円の維持費を出し渋る国。五輪での風評払拭に6億円費やす福島県。住民が求める安全安心にきちんと予算が使われているのか。福島市の木幡浩市長は当時、MPの存在そのものが風評を招くと話している。3月25日の聖火リレー初日を前に福島県沖で発生した大地震は、「復興五輪」に覆われた福島の住民たちの本音を改めて浮き彫りにしたのだった。(了) 全文は【119カ月目の福島はいま】「撤去などあり得ない」 大地震で再確認したモニタリングポストの必要性 揺れでよぎる「空間線量上がった?」の不安

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被ばく医療の国際貢献を議論 広島「HICARE」設立30年 via 中日新聞

広島県内の被爆者医療・研究機関でつくる放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)は11日、設立30年を記念するシンポジウムをオンラインで開いた。 (略) HICAREは1986年のチェルノブイリ原発事故を機に、世界に被ばく者医療の知見を広げようと県医師会や放射線影響研究所など10団体で発足。海外から研修生を受け入れたり、在外被爆者が住む国や核実験の被害地に専門家を派遣したりしてきた。福島第1原発事故では、線量測定や避難者の診察を支援した。 全文は被ばく医療の国際貢献を議論 広島「HICARE」設立30年

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