竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』via Blogos

紙屋高雪 2014年05月02日 13:38

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構造的な問題が描けるのか

もう一つ。果たして、竜田『いちえふ』は、構造的な問題を描けるのか、あるいは描こうとするつもりがあるのか、という点が気になる。

原発作業員の労働は、下請が多重構造になっていき、多重化された下の方は、違法な労働がまかりとおり、ピンハネが横行し、安全問題が軽視されている、という問題がしばしば指摘される。

2012年9月に発行された布施祐仁『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)は、「東電は公式には原則三次下請けまでしか認めていない」(布施p.127)としつつ、現実には多 重下請化し、本来発注側が指揮命令をしてはいけないのにしてしまう偽装請負が横行していることを告発する。

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布施は、「このように、電力会社や元請け会社などが労災を隠そうとしていることに加え、違法な偽装請負の恒常化が、労基署の介入を避けるための労災隠しにつながっている」(布施p.133)と結論づける。

この問題は、30年以上まえの原発労働の事情として書かれた『原発ジプシー』にもくり返し登場する。原発作業員として働く著者の堀江はマンホール に落ちて骨折する大けがを負うのだが、労災を使わせない。使わせないどころか、大けがをして苦痛にうめいている堀江にたいし、今そこに東電の社員が来てい るから立ち上がって仕事しているフリをしろと作業指揮者が強要するのである。労災扱いにさせた人も、敷地外でけがをしたことにしてようやく認めさせたとい う。

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「フクシマの真実」ではなく「福島の現実」を描くという本作がこの指摘を否定するのか、修正するのか、それともふれないのか、ということだ。

『いちえふ』1巻p.33には、「週刊誌のインチキ」として、作業中に心筋梗塞をおこし死亡したケースについて、蘇生したと報じた週刊誌があったが、それはでたらめだと述べている。そのうえで

まぁこの件は東電の発表でもいわきの病院に搬送してから死亡確認ということになっているから東電としても1F(いちえふ)内で死んだことにはしたくなかったのかも知れない(竜田p.33)

とだけ書いている。そして、心筋梗塞だから「勿論被曝との関連はない」(同前)ということを強調している。

そこが強調されるべきところだろうか、と首をかしげたくなる。

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『いちえふ』のあやうさ

ぼくが竜田『いちえふ』について危惧するのは、この点である。「プレイボーイ」では、本作品が記録としてすぐれていることを高く評価したうえで、「危うさ」についても書いた。

脱原発運動への敵愾心が先に立ち、客観的な記録を逸脱したり、ふみこむべき問題にふみこんでいないのではないか、という恐れである。

竜田『いちえふ』の1巻の終わりには、まわりの労働者が「明るい」ということが描かれる。まわりの労働者はバカ話をしながら、ギャンブルや下ネタ を連発しているのだ。作者竜田はどんな悲惨な現場だろうかと覚悟してきたが、わわれれの日常と変わらぬ「普通」さがそこにあるということを描こうとしてい る。

しかし、ギャンブルと下ネタが連発するのは、30年前に書かれた『原発ジプシー』を見てもまったく同じだ。なのに、『原発ジプシー』を読むと、それは刹那的な生き方として見えてくる。要は同じ事実をどう受け止めるのかの違いだろう。

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再稼働を主張する竜田

しかし、2014年4月29日付の「朝日」を読んだとき、その危惧についてさらに深めざるを得なかった。

同日付に竜田一人は登場し、「再稼働し『職人』絶やすな」と題する主張を展開していた。

いま日本の原発は全部止まっていますが、私は原発作業の技術と人員を確保するために、当面、安全な原発の再稼働は必要だと感じています。稼働する原発があれば、1Fで線量がいっぱいに近づいた技術者や作業員は線量が少ない他の原発で働いて食いつなげるし、若手を連れていって修業もさせられます。(前掲「朝日」、強調は引用者)

廃炉要員の技術継承と員数確保のためだけに再稼働しろと読める、この議論にはかなり無理がある。

第一に、技術継承と員数確保のためだけなら、再稼働ではなく、老朽化原発の廃炉を進ませてその作業をさせてもいいではないか。たとえば5月1日付の「朝日」には「『廃炉検討』言及相次ぐ 老朽化原発、負担見極め 電力4社」という記事があった。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11113020.html

記事にあがっている30~40年近い老朽炉は、18もある。なぜわざわざ再稼働なのか。

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第四に、これがもっとも本質的な問題なのだが、そもそも竜田のこの主張には、再稼働することのリスクが何も織り込まれていないということだ。よく 言われるように過酷事故が再発する確率は「低い」のかもしれない。しかし、いったん起こってしまえば、時間的・空間的・社会的に取り返しのつかない問題を ひきおこすという、「異質の危険(異常な危険)」をはらんでいる。

竜田は「安全な原発」とナイーブな前提をおいている。「国境なき医師団の継承者がいなくなると困るので、安全な国境紛争や飢餓はたやすべきではない」という主張に似た不自然さをおぼえる。

再稼働とリンクさせることが難しい問題を、かなりアクロバティックな主張で結びつけている印象が強い。そこに竜田の政治性、もしくは激しい市民運動への敵愾心を見るのである。

「現場」の運動への冷ややかな視線は竜田の専売特許ではない

布施の『ルポ イチエフ』には、その終わりの章に、原発作業員が、脱原発運動をどう見ているかというインタビューが載っている。

総じて手厳しい。

たとえばこうだ。

「原発が爆発した点だけを見て、そこで飯を食っているうちらのような人間もいることとか他の面を見ていないような気がします。もちろん東電や政府の 肩を持つつもりは、まったくありません。事故が起こったのは事実だし、彼らの責任も大きい。その責任をしっかりとらせて、安全対策もきちんとやった上で、 再稼働すべきだと思います」(布施p.183)

竜田ほど入り組んではいないが、驚くほど似ていることがわかる。

他の人たちも、脱原発運動の「地に足のついてなさ」というか、現実と格闘している自分たちとのギャップを感じている様子が伝わってくる。

ただ、布施のインタビューでは、にもかかわらず、そこで“仲たがい”している場合じゃない、として、デモへの理解をしなければならないと自分に言い聞かせる作業員も登場する。おそらく布施自身はそこに一つの希望を見いだしたのだろう。

いずれにせよ、竜田の感情は決して「東電に洗脳された政治主義」というわけではなく、ごく自然な感情の一つだということができる。「現場」の運動への冷ややかな視線は竜田の専売特許ではないのだ。

そして、くり返しになるが、ぼく自身は、このマンガを、客観的なイメージの記録として高く評価するものである。

全文は 竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』

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