核の傷痕、戻れぬビキニ 水爆実験から60年 via 朝日新聞

(抜粋)

通称「ブラボー・クレーター」。1954年3月1日、米国の水爆「ブラボー」の実験でできた。直径約2キロ、深さ約80メートル。海底にはすり鉢のように筋状の模様があり、中心に向かって深くなる。常夏の海に刻まれた「核の傷痕」だ。

広島原爆の1千倍の威力といわれたこの爆発で、周囲にあった三つの島が吹き飛び、放射性物質が広範囲にまき散らされた。事前に避難しなかった危険区域外の環礁の住民や、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」など周辺で操業中だった船舶が「死の灰」を浴びた。

ビキニ環礁の地方政府によると、核実験前まで住んでいた167人の島民が移住を強いられた。その後、米国とともに88年から着手した除染と再定住計画は、資金面などから宙に浮いたままだ。

国際原子力機関IAEA)は98年、ビキニの当時の放射線状況と再定住に向けた最終報告書をまとめ、こう結論づけた。「食料を地元にすべて依存するのを前提とすれば、永続的な再定住は勧められない。再定住を可能にするには何らかの改善措置が必要だ」

核実験から60年たった今、ビキニには施設の維持管理などに当たる作業員5人ほどが暮らすだけだ。

(略)

ビキニ環礁で一連の核実験が終了した10年後。ジョンソン米大統領(当時)は68年になってビキニ環礁の「安全宣言」を出し、再定住を促した。米国原子力委員会(当時)がその前年、「ビキニ帰還に伴う放射能被曝(ひばく)は、人々の健康や安全に顕著な悪影響をもたらすものではない。井戸水は安全に使える」とする調査結果を明らかにしていた。

多くの人が「安全宣言」に疑いを抱く中で、バンジョーさんら5家族約100人だけがビキニへ戻った。

しかし、77年に井戸水から米国の基準値を超えるストロンチウム90が検出された。78年には米内務省セシウム137について「(定住を)許可できないレベル」と発表。島民は再び、故郷をあとにした。

ビキニではその後、除染が始まり、世界文化遺産にも登録される。だが、バンジョーさんは、あきらめたようにこう言った。

「戻れるものなら戻りたい。でも、安全だということが信じられない」

首都マジュロ郊外で暮らすバンジョーさんの兄コーラントさん(65)は、家族がビキニに一時帰島したことを悔やんでいる。家族がビキニに戻ったころ、コーラントさんはフィリピンで働いていた。

マーシャル諸島に帰国した後、放射線量計測船の船長を務めた。政府が各地の放射線を計測して回る極秘任務だった。

ビキニではすべての計測機器が振り切れたという。

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