身近にある気付かない放射性残渣―米核開発 負の遺産(前編) via The Wall Street Journal

 それは原子力時代の幕開けの一助となる発見だった。米国が第2次世界大戦に参戦する前夜、カリフォルニア大学バークレー校のギルマンホールの小部屋で科学者たちがプルトニウムを分離したのだ。この瞬間が忘れられないように、307号室は国定歴史建造物に指定されている。

ところが、その瞬間を思い出させるものは他にもたくさんあった。大学の資料によると、その研究は大学が隣接した部屋を丸ごと取り払わなければなら ないほどの放射性残渣(ざんさ)をもたらした。それから四半世紀後、教授や学生たちはまだその建物を使っていたが、他にも12の部屋や廊下が汚染されてい るということがわかった。

大学はそうした個所も除染したが、今年になってまた微量の残渣が自習室で発見されてしまった。

大学の放射線安全管理者、キャロリン・マッケンジー氏は現在の被曝量は国が定める安全限界よりも「ずっと低い」と話す。それでも1980年代の除 染前は、そこを使っていた大学の管理者や学生たちが危険な水準の中で過ごしていた可能性があるという。「私たちには知りようがない」と同氏は話す。

バークレー校での汚染は、米国史における最も重要な科学的・産業的事業の遺物の一部と言える。冷戦の緊張が高まっていた時代、米国政府は核兵器や その他の形態の核エネルギーの開発と製造への協力を民間部門に頼っていた。数百の企業と数千の作業員がこれに従事した。この壮大な事業は国を守ることに寄 与した一方で、同じくらい壮大で――それでいてめったに公表されない――全国に及ぶ除染作業を残したのである。

(略)

しかし、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の調査によって、米国で最も長く継続中で、最も費用がかかっている除染に対処するために設けられた大規模な政府のプログラムに関する他の疑問が浮かび上がった。たとえば次のようなものである。

記録の管理にあまりもむらがあるため、エネルギー省は数十の跡地に関して除染が必要かどうかを判断するのに十分な資料を持っていないと述べている。

こうした跡地の追跡に数年を費やしてきたにもかかわらず、数十の施設に関して政府は正確な住所をつかんでいない。政府はウランを扱っていたある施設がどの州にあったのかさえ把握していないということも認めている。

当初には政府の安全宣言が出された20以上の跡地で追加的な除染が必要となり、それが2回以上になることもあった。

続きは除染に至った経緯とその後―米核開発 負の遺産(中編)

除染費用が核兵器予算を上回る―米核開発 負の遺産(後編)

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